科学技術の智ラボラトリとは

  「科学技術の素養をすべての人々に」という考え方は1980年代から世界の各地で提案されてきました。科学技術が次々と新たな展開をしているときに、一方で資源(物質とエネルギー)の大量消費による弊害も急速に生じて、我々が住む環境は有限であり、資源も有限であることが見えてきました。しかしこれまで人類が突き進んできた活動の勢いから、なかなか自然環境の有限性にも目配りして自らを律するということができない状況にあります。さらに、人類は自ら創り出した物質によって生命(人類自身だけでなく、他の種も含む生態系全体)を破壊しつつあります。このような現実を私たちはきちんと注視し、冷静に認識する必要があります。

  このような事態に賢く対応する人々を育成することを目標として、1989年に米国のAAASは「Science for All Americans」という文書を刊行して、全ての人が身につけるべき科学リテラシー(知識、技能、考え方)を提案しました。それに基づいて、K to 12(すなわち、幼稚園から高校3年まで)の発達段階に応じたリテラシーの習得を表示したアトラス(Atlas)も提案されています。例えば、数学については、幼稚園では、数(整数)には、量的な概念(2は1の2倍)と区別の概念(番号として)の二つの使い方がある、といったことを習得することから始めて年次が進むにつれて高度の概念を習得していく様子を提案しています。こうして市民として生きていくための科学リテラシーを身につけていく道筋を明示するのです。日本の教育でも、あるゴールを設定して、幼稚園から高校まで一貫してリテラシーを身につけていくような地図(アトラス)が描かれているのでしょうか。

  AAASの 「Science for All Americans」に刺激されて、日本学術会議でも2003年から「若者の科学力増進特別委員会」を設置して調査活動を進め、さらに2005年から3年間文部科学省(科学技術振興調整費)の支援を受けて「科学技術の智」プロジェクトを進め、約150名の科学者、技術者、教育者、メディア関係者、政策関係者などが参加して、7つの分野の報告書と全体を取りまとめた総合報告書を2008年に刊行しました。これらの報告はこのラボラトリにて公開されています。

  実は「科学技術の智」に先行して、日本工学アカデミー(EAJ)は2003年にEAJ技術リテラシー・タスク・フォース(主査 桜井 宏)を発足させて、2005年に「技術リテラシーと市民教育—学校で技術について何が教えられるべきかー」(EAJ Information No.122、May 20、2005)を刊行しています。

  AAASに倣うならば、これらの報告書をもとに、幼稚園から高校までの一貫した科学技術リテラシーの教育プログラムを提案すべきものであります。そのような一貫した考え方で教育プログラムを構想する試みが様々になされることがあって初めて、指導要領をめぐる議論が健全なものとなるのではないでしょうか。

  さらに、2008年に中央教育審議会の審議依頼を受けて、日本学術会議では「大学教育の分野別質保証のための枠組み」の検討を始め、2010年に「回答」を取りまとめ公表しました。ここでは、各分野の教育のコアとなる内容を明示する「分野別参照基準」の策定を提案しました。そして実際にその策定作業を日本学術会議自ら始めて、10年かかって33分野の「参照基準」を策定したのです。策定にあたって、どんなことを考えたかというと、まず大学には「・・・学」がたくさんありますが、それらがもつ共通の教育目標は、「世界の認識の仕方」と「世界への関与の仕方」を身につけることではないだろうか、ということです。そして、学問の多様性とは、「世界の認識の仕方」と「世界への関与の仕方」の多様性を表していると考えるべきはないだろうか。「・・・学」のコアを表すとすれば、2つの目標「世界の認識の仕方」と「世界への関与の仕方」という視点で、表現したらどうか。そうすることで、複雑な自然、社会、人間の課題の解決に向けて、学問分野の相違を超えた協働が可能となるのではないか。大学が教育の最終段階だとすれが、教育全体の目標は「協働する知性」の涵養ということではないだろうか。そのような考え方に立って、33分野の「参照基準」が策定されたのでした。

  そうすることで、日本では、初等教育から高等教育までの目標が明確にされたのではないか、と思うのです。もちろん、「科学技術の智」から「参照基準」に至る検討の中で、次第に日本学術会議が示していった教育のゴール、すなわち「世界の認識の仕方」と「世界への関与の仕方」が唯一とは限りません。他にも様々な教育のゴールの可能性を考えて良いと思います。大事なことは、一人一人の若者が成長していって社会の一員として生きていくことの意味を、単に一人ひとりの能力開発という視点だけでなく、より良い社会の実現に向けた協働作業の中で見出していくことが必要ではないかと思うのです。

 この「科学技術の智ラボラトリ」は、そのような協働作業の場でありたいと思うのであります。

代表 北原 和夫

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